下水道を考えるⅠ(生活排水、生活雑排水、し尿、汚水処理施設、合併浄化槽、農業集落排水)
かつて住んでいた中野区でも柄杓(ひしゃく)で溜め壺からし尿を汲み取り、これを肥桶(こえたご)に移し替え、天秤棒でバランスよく運んでいた時代があった。1955年に幼稚園から毎日のように寄り道して帰る途中、哲学堂近くの坂下で肥桶がひっくり返り、大騒ぎしているのに出くわしたこともあった。
どこの家でも、木枠に金網を貼った簡単な器具で、便所から湧くハエを捕まえるような非衛生的な時代だったが、1960年前後に「バキュームカーによる汲み取り式」に代わってから、少しは改善された。
1964年の東京オリンピックの直後に、自宅前の道路真下に直径約1mの下水道枝線と直径約3mの下水道幹線が敷設された。幅8mの道路が10m以上の深さまで掘られ、地層がむき出しだった。妙正寺川によって侵食されたため「関東ローム層」はなく、地表近くに「凝灰質粘土層」、その下層に葉っぱの切れ端が混ざる「沖積層」を観察することが出来た。
現在住んでいる多摩地域の小金井市は1972年まで、国分市の知人宅はそれより更に10年遅れて1982年まで汲み取り式が続いていた。人口密度の高い大都市でさえ格差が見られたように、今でも都市と地方との地域間格差は依然として残っている。そこには、下水道を構築、維持する財政面の問題が絡んでいる。
下水道が整備されるまで、家庭や事務所のし尿以外の生活排水である炊事、洗濯、入浴などに使用された生活雑排水は道路の側溝(どぶ)に流され、そこから川に流れ込んでいた。このため、自宅近くの妙正寺川もどぶ川であった。
妙正寺川が高田馬場近くで合流する神田川は、今でこそ御茶ノ水駅のホームから鯉が泳いでいるのを見ることが出来るが、1960年代後半から1970年代前半は最悪のどぶ川で、嫌気性菌が発生させたメタンガス、硫化水素ガスなどがどす黒い底泥をあちこちで浮き上がらせ、それが浮遊汚泥(スカム)となって流れており、腐敗したような悪臭が漂っていた。
焼玉エンジンの軽やかな音が響くポンポン船が行き交う様はのどかであったが、通った後は巻き上げられた汚泥が黒い痕跡となった。
by ecospec33 | 2012-10-11 12:02 | 〇下水道と汚水処理